私が、生きていくこと
松本美枝子

 二〇〇八年一月一日、写真家の友人が、撮影中に倒れて突然死んだ。雑踏の中で、カメラを二台抱えたまま。その前月、偶然お互いに日本カメラという雑誌から撮影依頼があり、ある特集を彼と分担して撮影したのだが、それが私たちの最後の共同作業となった。

  彼とは写真について語り合い、まめに連絡する間柄だったのだが、この間、なぜだか連絡を取らず会わないままにしてしまった。忙しかったせいもある。一つの仕事を二人で分担することに、変に気をつかっていた部分もあったかもしれない。

  いずれにせよ、彼に電話を一本入れるチャンスは、もう二度とやってこない。
  三十三年間生きてきて、こういう取り返しのつかないすれ違いをしたのは、本当に初めてかもしれない。人間はふだん、今、生きて息を吸っていることが当たり前で、それを大前提にしか行動や思考ができない、ということがよく分かった。
「生きている」あるいは「死ぬ」。私はずっと、このことを忘れないでいるために写真を撮っているつもりだった。でも、もしかしたらこのやり方は、現実の人生の上で、あまり役に立っていなかったのかもしれない。今となってはもう遅いけれど、こんな空しい失敗を重ねて、それでも人は生きていくのだと思う。

  しかし幸せな記憶もある。死んだ友人と、真冬の港でアンコウ鍋を食べたことがあった。彼はもう、どこにもいない。でもあの時の極上で奇怪な魚の半分は、私のどこかの血肉となり、今、確かに動いているはずだ。そうして、まだしばらくは、このまま動き続けるだろう。少なくとも今、この瞬間までは。

  そう考えると、生きていくことも、そんなには怖くはない気がする。

  もし、カメラがなかったら、私はもっと要領よくこの世界を渡っていけるのかもしれない、と思う時もある。けれどもアンバランスな人生と引き換えに、私は写真と自由を手に入れて、生きている。

  生きていくことは気が遠くなるほど面倒くさい。堪え難いこともある。でもその瞬間をくぐっていくうちに、それ以上の喜びや輝きを見つけることもできる。(例えば、落ちこぼれで、授業中に詩集ばかり読んでいた女子高生が、のちに写真家になって大好きなその詩人と実際に出会えたように。)

この世界の誰もが、きっと、そうなんだと思う。そして世界は、誰にとっても、そうできているはずだ。それをいつでも思い出せるように、この本を作りました。

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